富山県が誇る地元企業不二越に関する記事が掲載されていました。
「不二越、新人全員に「強制外遊」 経費1億円惜しくない」–いわずと知れた不二越は、新入社員全員を強制的に2か月間海外に送り出す人事制度を導入し、語学学校に通いながら、現地企業の訪問や地域活動への参加などを通して異文化を体験するそうです。この制度にかかる費用は年間1億円近くにもなり、社員1人あたり約200万円かかるとのこと。(日本経済新聞)
強制されることは重要
この「他人に強制される」こと、これは非常に大事なことだと思います。みんな知らず知らずのうちに自分の限界を決めてしまい、「これ以上無理」、「こんなの意味ない」と他人から強制されなければ、諦めてしまう領域に、自ら踏み込むことができるからです。
私も他人に開眼させられた
私自身も、高校卒業した後、両親から、当時父親の溜まったJALのマイルを使って良いから(航空券は無料で)海外旅行にでも行ったらどうだ、と勧められていました。しかし、海外にも行ったことなかったので、全く興味もなかったし、英語もできなかったので、道に迷ったらどうしよう、などと漠然とした恐怖感から頑なに行きませんでした。
その後、中学校時代の友達がバックパックしてフランスに行き有名なサロンに行って髪の毛を切ってもらった武勇伝を聞き、「え、海外旅行へ行っていろいろできるんだ。それに非英語圏でも大丈夫なんだ!」と気づかされ、その後私も2週間ほどヨーロッパへ周遊に行きました。この件は強制ではありませんが、自分が思い込んでいたことを打ち破るという意味で、似たような体験となりました。
ちなみにその友達は、そのサロンでイマイチ要望を伝えられず、単なる坊主になっただけでしたが。
英語だって強制されなければ
これは英語においても同じです。
繰り返しになって恐縮ですが、私自身も英語に非常に苦労してきて、英語が話せるようになったのは、本格的に勉強を始めた社会人になってからです。
英語の勉強に「音読」を加えさせられた
社会人になってから、習った英語勉強法が音読でした。音読なんて、小学校低学年が国語の宿題でやることだろう、と思って、イヤイヤやっておりましたが、それを実践してから英語力が爆上がりしました。
あの時に音読を強制されなかったら、私の英語力は大して上がらなかったと思っています。人から強制されるということは非常に重要なのです。
運動もそうでしょう。例えば、バク転などの大技はできないと思っていますが、人から、練習を強制されることで、そのうちできるようになる。やり方と、その練習を強制されることによって不可能だと思っていたことが可能になるのです。
食べ物もそうです。見た目が悪かったり、匂いが強いものはみんな敬遠しますが、食べてみるとおいしいものはあります。日本人なら納豆、外国の食べ物ならドリアンなど。
試してみないとわからない。しかし、この試すということが非常に億劫なわけです。そこで誰かに試させられる、強制されるということが重要です。
スポーツ界も英語を強制しています。:スポーツの世界にも英語←フェンシングでは始まっている
子供へも英語を強制してみる
子供のためを思えば
話が逸れたので、英語に戻しますが、英語の重要性は誰しもが認めるところ。しかし、「子供が興味を持ってから」、「子供が嫌がるので」、と言って英語をさせない親御さんがたまにいらっしゃいます。
プディングは食べてみないとわからない、ことと同じように、英語だってさせてみなければわかりません。そしてどんどんどんどん強制していけば良いのです。
たまにこういう反応が返ってきます。
「子供が英語を嫌いになってしまったら困る。」
そんな心配はいらないと思います。必要に迫られれば自ら英語はやります。ずっとそのまま英語が嫌いで英語をやらないと子はうことは見たことがありません。本当にそれで英語をやらないのであれば、それは英語ではなく勉強が自体が嫌いか、そもそも強制されてもされなくても英語ができるようにはならなかったのです。必要となれば、興味が湧いてくるものです。
「押すなよ」は押してあげる
誰かが背中を押してあげないとダメです。子供が嫌になったら将来にわたって姜妃感を持ってしなくなる、というのは親が破らなければならない思い込みです。
「押すなよ、絶対に押すなよ」と言われて、背中を押して熱湯風呂に落としてあげないのは、芸人だけでなく、我々年長者の無粋でもあるのです。
苦いビールを無理矢理飲ませた先輩や、にんじんを無理矢理食べさせたり、箸の持ち方を何度もしつこく注意した親に感謝していませんか?
強制はある意味「愛」なのです。